
2024/07/20 - 2024/07/20
21位(同エリア256件中)
幸ちゃんさん
東海道新幹線で通り過ぎるだけだった関ヶ原へ行って来ました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「関ケ原合戦史跡めぐり」 後編は左上のエリアです。
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国道21号関ヶ原バイパスの下をくぐって石田三成陣跡へ向かいます。
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石田三成陣跡 500m→
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関ヶ原 笹尾山交流館 甲冑体験・甲冑展示
関ケ原笹尾山交流館 名所・史跡
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島左近(しまさこん)陣地
島左近(清興)は、「治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの智将で、三成は自らの俸禄の半分を与えたとの逸話が残る。島左近陣跡 名所・史跡
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石田三成陣跡
石田三成陣跡 名所・史跡
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石田三成陣跡
「笹尾山は北国街道を押さえる位置にあり、高所で盆地を一望でき、防御に適している。石田三成隊約6千は、西軍諸隊とともに前日の夜半に大垣城を出て、合戦当日の午前1時頃ここへ布陣した。
午前8時頃に戦いの火蓋が切られると、黒田長政や細川忠興ら兵力で勝る東軍諸隊が猛攻を仕掛けるが、島左近(清興)を中心に石田隊は獅子奮迅の働きを見せ、東軍を幾度も押し返す。しかし、左近が黒田隊の射撃で負傷し戦線から脱落すると、石田隊も徐々に押し込まれる、西軍は善戦していたが戦っていたのは一部の部隊だけだった。島津義弘は三成の度重なる参戦要請を拒否。午前11時頃、三成はここから総攻撃の烽火を上げたが、松尾山の小早川秀秋、南宮山(垂井町)の毛利秀元らは動こうとしない。
その最中、正午頃に秀秋が東軍へ寝返り均衡は崩れる。大谷吉継隊が壊滅すると、西軍諸隊は次々に崩れ敗走。勢いに乗って押し寄せる東軍諸隊を相手に、石田隊は決死の覚悟で踏み止まり奮闘したが、午後2時頃にはついに壊滅。三成は再起を期して、背後の伊吹山方面へ逃れていった。」石田三成陣跡 名所・史跡
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階段が続いています。
石田三成陣跡 名所・史跡
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石田三成陣地の幟(のぼり)が見えます。
石田三成陣跡 名所・史跡
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見晴らし台
石田三成陣跡 名所・史跡
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関ヶ原古戦場 史跡位置図
この関ヶ原盆地において東西両軍あわせて約15万人の兵が激突しました。笹尾山は西軍の石田三成が本陣を構えたところです。石田三成陣跡 名所・史跡
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関ヶ原古戦場 石田三成陣地
石田三成陣跡 名所・史跡
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白い建物の後ろに「岐阜関ヶ原古戦場記念館」が見えます。
石田三成陣跡 名所・史跡
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笹尾山を後にして決戦地へ行きます。
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決戦地 ←150m
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関ヶ原の戦い 決戦地(後方に石田三成陣跡が見えます)
「西軍は総兵力で東軍を上回っていたが、開戦から積極的に戦っていたのは石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継らごく一部だった。
西軍に与しながら、事前に東軍へ内通していた松尾山の小早川秀秋は去就を決めかね戦況を傍観。南宮山(垂井町)の毛利秀元は、やはり東軍に内通した一族の吉川広家に進路を塞がれ、南宮山麓の安国寺恵瓊ら諸隊も動くことができない。小池村に布陣した島津義弘に至っては専守防衛の姿勢で敵味方構わず討ち払っていた。
それでも、黒田長政らの猛攻を幾度も押し返した石田隊をはじめ西軍諸将は善戦し、正午頃まで一進一退の攻防が続いていた。桃配山に布陣した徳川家康は、いち早く陣を進めて全軍を指揮したが、この状況に極めていらだったといい、煮え切らない秀秋に向け鉄砲を撃ちかけたと言われている。
しかし、秀秋が寝返りを決意し、迎撃した大谷隊は善戦むなしく壊滅、西軍は総崩れとなる。その時ここ決戦地一帯は最後に残った石田隊や島津隊に押し寄せる東軍諸隊で埋めつくされていたと考えられる。東軍の最後の一押しに石田隊もついに壊滅、島津隊は家康の本陣を横切り敵中突破して戦線を離脱して戦いは終わる。
天下分け目と言われる国内最大級の戦いは、わずか半日程度でその幕を閉じた」関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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イチオシ
「史跡 関ヶ原古戦場 決戦地」
関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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国道365号線の歩道橋を渡って開戦地へ行きます。
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開戦地 →550m
島津義弘陣跡 →400m -
小池神明神社
「西軍の将島津維新は陣地として好適地につきこの境内を本陣として戦勝を祈願したといわれている。」 -
島津義弘陣跡
「島津義弘隊1千5百余は、未明までに関ヶ原へ入り、この地から北西約250メートルの薩摩池付近に陣を敷いた。二番備えとして石田三成の側面の守りと、北国街道の押さえを任される。開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく自陣に近づく者は東西両軍にかかわらず討ち払う姿勢をとった。
三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門(やそじますけざえもん)が下馬しなかったことを無礼として、激怒し追い返す。その後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候」と呼応しない。一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより戦況は一変。東軍の猛攻に耐え切れなくなった西軍諸隊は次々に敗走する。孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の島津豊久に説得され、撤退を決める。西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路をとる。島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。」島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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島津義弘(惟新)陣跡
関ヶ原合戦の前年(1599年)に島津義弘は剃髪して「惟新斎」と称していました。島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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島津義弘(惟新)陣跡
「戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康にみせつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に替えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。」
「関ケ原戦跡踏破隊」の名碑
鹿児島県日置市の青少年で組織する関ケ原戦跡踏破隊は、昭和三十五年から毎年夏休みを利用して関ケ原から大阪までの島津勢退路を踏破しています。(途中電車等も利用) この名碑には、これまでの参加者の氏名、年齢を刻み、その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて設置しています。
また、関ケ原戦跡踏破隊が取り持つ縁で、関ケ原町と日置市(旧伊集院町)は、昭和三十八年に兄弟都市盟約を結んでいます。]島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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←250m 開戦地
←320m 小西行長陣跡 -
小西行長陣跡 120m →
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小西行長陣跡
「小西行長は、宇土城(熊本県宇土市)で肥後(熊本県)半国を領していたが、同じく肥後半国を治める加藤清正と政治的に対立を深めていた。文禄・慶長の役の対立も絡み、これが文治派。武断派分裂の一因とも言われる。文治派の石田三成らが挙兵すると西軍に与した。
本戦の当日は、夜明けまでに約6千の兵を率い、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川逵安(みちやす)らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまう。小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。行長自身は春日(揖斐川町)方面へ逃走した。
熱心なキリシタンで自害できなかったと言われ、19日に関ヶ原の庄屋・林蔵主(りんぞうす)を介して自首し、この地を治める竹中重門の家臣の手で捕縛された。これに出された徳川家康からの感状は、今も関ヶ原町に伝わる(小西召捕感状(こにしめしとらえかんじょう))。林蔵主は、はじめ行長に逃げるように薦めたが、最後には東軍の陣へと送り届けたと伝わる。行長はその後、10月に三成らとともに京都の六条河原で処刑された。」北天満山 小西行長陣跡 名所・史跡
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「関ヶ原古戦場 開戦地」の碑
関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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開戦地 関ヶ原の戦い
「慶長5(1600)年、徳川家康は会津征伐のためとして東下、それを好機と石田三成らは、毛利輝元を総大将に担ぎ上げ大坂で挙兵し、関ケ原の戦いの幕が開く。
西軍は、西上する家康らを美濃・尾張国境で迎撃しようと、三成自身も大垣城に入城する。しかし、東軍の福島正則らは、三成の予想に反し先んじて美濃に侵攻。岐阜城をはじめ西軍の諸城を次々と陥落させ、大垣城にほど近い赤坂(大垣市)に集結する。後を追って9月14日に着陣した家康は、長期化が予想される大垣城攻めを避けるため、「東軍はそのまま大坂に西上する」という噂を流させたという。
西軍は、東軍の西上を阻止しようと雨の中、夜半に大垣城を出発。15日未明までに、最左翼の笹尾山に三成、小池村に島津義弘、天満山に小西行長と宇喜多秀家が着陣。先に布陣していた藤川台の大谷吉継や、南宮山(垂井町)の毛利秀元率いる毛利勢、松尾山の小早川秀秋と合わせ、鶴翼の陣で東軍を迎え撃とうとする。後を追う東軍は、関ヶ原の盆地中央に進出、福島正則を先陣に魚鱗の陣を形成した。雨があがり、霧が晴れ始めた午前8時頃、東軍の松平忠吉と井伊直政が抜け駆けして宇喜多隊に発砲。天下の覇権を賭けた国内最大級の戦いが、ここ関ヶ原で繰り広げられることとなった。」関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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関ヶ原古戦場 史跡位置図
関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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← 740m 宇喜多秀家陣跡
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林の中を歩きます。
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宇喜多秀家陣跡
南天満山 宇喜多秀家陣跡 名所・史跡
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宇喜多秀家(うきたひでいえ)陣跡
「五大老の一人だった宇喜多秀家は、当初から石田三成への協力を約束し、西軍の副大将を担った。
前夜に関ケ原を目指し、大垣城を出発した西軍諸隊の殿(しんがり)を務め、午前5時頃に南天満山へ布陣した。夜半の行軍中、同じく関ケ原を目指した東軍の先鋒・福島正則隊が宇喜多隊に追いついてしまい、小競り合いになったと言われる。
午前8時頃、宇喜多隊へ向け、松平忠吉を伴った井伊直政の一隊が発砲、続いて福島隊が攻撃を開始し、戦いの火蓋が切られた。宇喜多隊は西軍諸隊の中で最大の兵力約1万7千を擁し、戦意は盛んだった。明石掃部(かもん)(全登(てるずみ))が先陣を務め、可児才蔵(かにさいぞう)(吉長)を先陣とする福島隊と激戦を繰り広げた。
しかし、正午頃に小早川秀秋が寝返り状況は一変、宇喜多隊も総崩れとなる。秀家は秀秋の振る舞いに激怒し、秀秋との決闘を覚悟するが全登に勧められ伊吹山中に逃れた。逃走中、落ち武者狩りをしていた白樫村(揖斐郡揖斐川町)の郷士・矢野重昌(しげまさ)に遭遇、その温情で匿われた。さらに島津家を頼り薩摩に落ち延びるが、後に徳川に引き渡され八丈島に流される。戦い当時、28歳だった秀家は、流人として84歳まで生きた。」南天満山 宇喜多秀家陣跡 名所・史跡
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大谷吉継墓 ←810m
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藤古川ダム湖を渡ります。
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堰堤(えんてい)から階段を降ります。
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広域農道に出ました。
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←470m 大谷吉継墓
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山の中へ入って行きます。
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大谷吉継墓
「小早川秀秋らが寝返り、大谷吉継隊は壊滅。最後を悟った吉継は「病み崩れた酷い顔を敵に晒すな」と言い残し、家臣の湯浅五助の介錯を受け藤川台で自刃した。戦場を離れ吉継の首を隠した五助は、直後に出くわした藤堂高倉の甥・高刑(たかのり)へ、「主君の首の在処を秘して欲しい」と頼み、自らの首を差し出す。高刑はその約束を守り、徳川家康の詰問にも頑として首の在処を言わなかったという。
吉継の墓は、その藤堂家によって建立された。大正5(1916)年には、湯浅家の手により吉継の墓に寄り添うように五助の墓も建立された。」大谷吉継の墓 湯淺五助の墓 名所・史跡
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大谷吉継の墓 湯淺五助の墓
大谷吉継の墓 湯淺五助の墓 名所・史跡
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←250m 大谷吉継陣跡
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大谷吉継陣跡
「大谷吉継は慶長5(1600)年9月3日に山中村へ布陣した。ここは要害の地で、東山道(中山道)を見下ろせ、松尾山を正面に望むため、東軍の近江侵攻や、小早川秀秋の抑えにもなる。吉継は秀秋の不穏な動きを警戒し備えた。その痕跡として塹壕状の横堀が東西に今も残っている。病を得ていた吉継は、馬にも乗れず輿に乗って後方から部隊を指揮したという。開戦後は藤堂高虎や京極高知(たかとも)らを相手に戦った。正午頃に秀秋が寝返ると、これを予想していた吉継は、予て備えていた一隊で迎え撃ち、兵力で圧倒する小早川隊の攻撃を跳ね返して松尾山へ押し戻すほどの働きを見せる。しかし、直後に脇坂安治らも寝返ったため、吉継は敗北を悟る。三方から攻められた大谷隊は衆寡敵せず壊滅した。」大谷吉継陣跡 名所・史跡
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松尾山眺望地
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右に「眺望案内」、左に「松尾山眺望地」の看板が見えます。
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眺望案内
手前から「JR東海道本線」「旧中山道」「国道21号」「黒血川」「JR東海道新幹線」「名神高速道路」「▲松尾山」
松尾山と国道21号以外は見えにくいです。 -
松尾山眺望地
「正面1.5キロ先に望む標高293米の山が松尾山である。関ヶ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。当時の遺構がほぼそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っているのが確認できる。吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約二千の兵を率い下方山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。案の定秀秋の兵1万3千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること3度、遂に総崩れとなり吉継は自刃した。こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の勇姿が偲ばれる。] -
中山道 →160mへ降りることにします。
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階段の先に線路が見えます。
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JR東海道本線 若宮踏切
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若宮八幡神社
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国道21号線を関ヶ原駅へ向かいます。
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喫茶店を探しましたが見つかりませんでした。
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再び跨線橋を渡って岐阜関ヶ原古戦場記念館へ行きます。
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岐阜関ケ原古戦場記念館の隣にあるレストランです。
伊吹杏庵 グルメ・レストラン
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メニューが豊富にあり、遅い昼食にしました。
伊吹杏庵 グルメ・レストラン
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関ヶ原駅前観光交流館で荷物をピックアップ
関ヶ原駅前観光交流館 名所・史跡
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関ヶ原駅
関ケ原駅 駅
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1時間に2本しか電車はありません。
関ケ原駅 駅
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東西両軍あわせて約15万人の兵が激突した関ケ原の合戦、もし東軍が敗けていたら、その後の歴史も大きく変わっていたことでしょう。
そのようなことを思いながら米原行に乗って帰りました。米原駅 駅
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